沿革と歴史
大正
大正3年頃より | 菅田庄太郎が菅田庄太郎商店として個人で主に豆売りの商いを始める |
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昭和
昭和26年5月 |
北海物産株式会社 創業 本社を高山市下二之町55番地におく 資本金100万円 主に穀物等の卸売り 菅田庄太郎 代表取締役(初代)就任 |
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昭和28年8月 | 資本金200万円(増資) |
昭和31年6月 | 本社を高山市天満町5丁目13番地におく |
昭和39年4月 |
菅田庄太郎 代表取締役 辞任 中野清 代表取締役(2代目)就任 |
昭和40年7月 | 創業者 菅田庄太郎 逝去 |
昭和42年6月 | 大野郡宮村山越にて鉄筋コンクリートU形の製造を開始 |
昭和43年5月 |
称号を変更し、「富士コンクリート工業株式会社」とする 資本金800万円(増資) |
昭和44年11月 | 大野郡宮村砂畑に約12,000㎡の工場用地を確保し、宮工場を建設 |
昭和46年6月 |
鉄筋コンクリートU形の日本工業規格表示許可工場となる 資本金1,500万円(増資) |
昭和47年12月 | コンクリートL形側溝及び鉄筋コンクリートL形側溝、コンクリート境界ブロックの日本工業規格表示許可工場となる |
昭和49年2月 | 本社を現在の高山市冬頭町1450番地の6に新築移転 |
昭和54年1月 | 株式会社タグチコンクリートを吸収合併し、久々野ブロック工場として稼働 (後にブロックの製造終了を機に、平成6年工場閉鎖) |
昭和54年6月 |
中野清 代表取締役会長就任 中野和行 代表取締役社長(3代目)就任 |
昭和60年4月 |
販売業を分離し、系列会社 有限会社フジコンを設立 代表取締役 中野和行 就任 |
昭和63年5月 | 代表取締役会長 中野清 逝去 |
平成
平成2年4月 | 道路用鉄筋コンクリート側溝及び道路用鉄筋コンクリート側溝ふたの製造を開始 |
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平成2年11月 | 製造ラインを変更、鉄筋コンクリートU形及び道路用鉄筋コンクリート側溝専用ラインを設ける |
平成4年3月 | プラント設計器変更、自動計量(ロードセルデジタル表示式)とする |
平成5年8月 | 道路用鉄筋コンクリート側溝の日本工業規格表示許可工場となる |
平成6年3月 | 道路用コンクリート製品の審査事項の改正(道路用コンクリート製品と道路用鉄筋コンクリート側溝が合併)により、許可内容が変更になる(許可番号:471017) |
平成7年4月 |
系列会社である有限会社フジコンを吸収合併 資本金1,650万円(増資) |
平成8年12月 | 新プラントを建設し、製造ラインと直結する |
平成12年11月 | 創業50周年式典・祝賀会開催 |
平成13年6月 |
代表取締役社長 中野和行 逝去 堀之上彌法 代表取締役(4代目)就任 |
平成14年5月 |
グループ会社 有限会社飛騨雪国科学(FC)を設立 代表取締役 堀之上彌法 就任 |
平成14年8月 | 大野郡宮村山越工場跡遊休地に「宮村41とれたて直売所」を開所(平成20年代に、国道41号宮・石浦バイパス計画により閉所) |
平成15年6月 | プレキャスト(PC)住宅基礎パセオエースの生産開始(以降フラットベース→クイックベース→アイランドベースと改良される) |
平成18年9月 | 宮工場事務所 改修工事 |
平成19年6月 | バイオトイレ事業開始 |
平成19年9月 | グループ会社の飛騨雪国科学が本社資材・駐車スペースを改装し「薪ストーブ&ペレットストーブショールーム(現富士ストーブSR)」をOPEN |
平成22年11月 | 創業60周年式典・祝賀会開催 |
平成24年4月 |
有限会社飛騨雪国科学のFC契約満了により、同会社を吸収合併 事業部制とし、コンクリート事業部とゆきぐに事業部を設立 |
平成26年6月 |
堀之上彌法 代表取締役会長就任 堀之上琢弥 代表取締役社長(5代目)就任 |
平成30年6月 | 堀之上彌法 代表取締役を退任、相談役会長となる |
令和
令和2年7月 | 通水網の実用新案登録許可を取得 |
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令和2年12月 | 相談役会長 堀之上彌法 逝去 |
令和3年3月 | 新型PC住宅基礎アイランドベースの生産開始(ものづくり補助金 特別枠採択) |
令和3年11月 | 創業70周年式典開催(新型コロナウィルス感染症蔓延により1年延期) |
令和4年9月 | プラント設備一部改修(ベルトコンベア、モーター等) |
令和5年10月 | 製造設備一部改修(投入機) |